1.25.2008

ふたつの家のちえ子/今村葦子:著(評論社)

私自身より、少し年長の世代のお話だった。田舎の、昔の、少女に、沁みじみ共感を覚えた。
子ども時代に読むのも良いだろうが、昔子どもだった大人にも、物を思わせる…

とても真っ当な、清貧(ブルジョアでない知識人?!)の生活が、描かれてていた。季節の行事や複合世代の支え合いが、夢のように繰り広げられ、こうやって、子供が育つのだ、と思った。
安心、不安、悲しみ、悦び、落ち着いた毎日でありつつ、あっと驚く変化もある…
物語には「謎」が潜んでいるので、結末は内緒にして(^^;)

「ぼん花」の章から断片的に紹介:
○九月にはそこらじゅうに咲くおみなえしの花も八月のお盆の頃には、まだめったに咲かないのです。ですから「ぼん花」としてめずらしがられ、大切にされるのでした。そして、めずらしい「ぼん花」をさがす仕事は、むかしから野や山をかけまわる子どもたちの仕事に決まっていました。ーー
○たとえ一本だけでも「ぼん花」が摘めたら、それはとびっきり大手柄なのでした。ーー
○ーーぱっとふりむいたおばあさんが、「おお、よう見つけた。さぞ、ごせんぞさまがよろこぶじゃろ」と言いながら、ちえ子の手からおがむようにして「ぼん花」をうけとりました。
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大切に持ち帰られて、仏壇に備えられると、神々しくなるぼん花。
お精霊さまを、お迎えに行く夕べに、毎年、おばあさんが仕立てた新しい浴衣を来て、出かける。

大切に人(生きている人も、今は亡き人も)に相対し、身を尽くして、毎日の生活を、成り立たせている。

こんな「ちえ子の一つの家」のあと、まるで違う、強烈な「ちえ子のもう一つの家」に、連れて行かれます。
そこでは、ヒシャク1杯2杯の水を疎かにすることも出来ない(>_<)
汗の結晶のような生活が繰り広げられる、けれど、お正月には、子供たち全員に新しい靴を買いそろえられる。

ここでも、人々は、身を粉にして、周りの人々と自分の幸せを編み上げています。


ああ、私は、自分を何様と思って、かくもグータラしているのだ!と恥ずかしくなるお話でした。

1.21.2008

東京都現代美術館

<Space For Your Future アートとデザインの遺伝子を組み替える>
チケットを貰ったので、行ってみたが、ワザワザ出かけるほどの展覧会ではなかった(>_<)
清潔で綺麗な建物だが、気に入らない。※六本木の新国立美術館も、嫌い(>_<)
表題(「アートとデザインの…)がちょっと洒落ていたが、見せられたものに、余り惹かれなかった。
むしろ、常設展のほうに、素敵、面白い!と思うものがあった。その中の一つ:
○スゥ・ドー・ホー『リフレクション』
透ける水色のオブジェは、福岡アジア美術館に吊り下げられていた中国の皇帝服を思い出させたが、ここのは、韓国の門の形だという。

森美術館で展示された金閣寺のリフレクション(岩崎貴宏/六本木クロッシング2007)と同じ発想だろうか。




思いがけず、岡本太郎の大壁画の展示があり、これは、見る甲斐があった。
制作されたのは、東京オリンピックと大阪万博のあいだ頃らしい。ブラジルの富豪が計画したホテルに設置される筈だった。ホテルが頓挫したあと、こーんなに大きいものが、行方不明になっていた!
再発見されて、大補修を施され、今、渋谷駅に飾りたいという運動がある。
原爆の悲惨や、その先へと生きる希望を描く、という説明があり、ゲルニカのようだと思うが、レトロな愛らしさに満ちていた。


1.19.2008

Belle de Jour & Belle toujours!

ホテル・レジーナ
題名について。
「昼顔」(Luis Buñuel監督 1967)、原題は「 Belle de Jour」これは、花の名前としてそのまま、"昼顔"のことだが、"Belle"は、美人のことも言う。jour=昼間。昼の美人。カトリーヌ・ドヌーヴが演じる23歳の、生活に不自由無い奥様が、自由に、秘密に、パートタイマーになれるのは、昼間だけだったことを、象徴し、これ以上の呼び名は無い。
反対語として?"Belle de nuit "は、花の名なら、"オシロイバナ"のこと。nuit は夜。夜の美人=娼婦を指す=プロの女性に対して、昼の美人はアマチュア、と言ったら良いのか(^^;)
昨年末公開された Manoel de Oliveira 監督の「夜顔」の、原題は(オシロイバナ、或は、娼婦の喩え” Belle de nuit” ではなく)「Belle toujours」、直訳すれば、「いつまでも、美しい」、「変らぬ美人」、とでも言う意味になる。(劇中、ユッソンがセブリーヌに、そう言う場面がある)日本語で「夜顔」としたのは、やはり、名高き「昼顔」の対として、更に、”オマージュ”として(に違いない)!。

前作「昼顔」では若妻の美貌、新作「夜顔」で、パリの街の豪華絢爛。豪華な表皮の下の、心理学的描写。

「夜顔」の後ろに、「昼顔」を透かしてみる。年月を経て、ミシェル・ピコリの老大成振りに、目を見張り、ドヌーヴは ビュル・オジエに変ったが、輝く金髪には、同じく=Toujours!目を奪われた。ジャンヌ・ダルクの黄金の像のよう!

日本人が演じることを想像してみる。
セブリーヌは、若尾文子なら結構かも(23歳と65歳で!)、夫ピエールは30歳くらいの三浦友和では如何?煮ても焼いても食えないようなユッソンにぴったりの人が、さっと思い浮かばない。知性も茶目っ気もあり、嫌らしい目つきのー

そして、あの時代とこの時代の Paris でなくては作れない映画だと思った。それを、イヤガウエにも掻立てる交響楽の美。(「昼顔」には、バックミュージックは、無かった、と思う)


謎は、謎めかせられたまま、映画は終わったが、真実というものは、目には見えないものだから、余韻に酔うことが出来れば、上出来の映画。
心は揺れ動く。

セブリーヌとユッソンの間には、関係は、無かったと、私は、解釈している。
或は、ユッソンが言うように、あったか?なかったか?「本当のことを言う」ことは、今や、重要ではない、のかも知れない。





無言で食事

1.11.2008

アンカーの言葉から

もし、人生をやり直せるのなら、バルビゾン派の画家に生まれかわりたい

家へ帰って暖かい部屋にいることほど幸せなことはない

アンカー展 

髪を編む少女

窓辺で編み物をする少女

花輪を編む三人の少女  明るいところで、手で『編む行為』の様々。


木のベンチで眠る少女。
裸足になって、解放された眠りを眠る。地面にはリラの花束。
ベッドの中の二人の子供
二人それぞれの、表情が、なんとも言えないー
子供がこんな表情をしていることを、子供自身は気が付いていないだろう。言葉は無くても、大人から見れば、心を打たれる。



何の説明も要らない。あるべくしてある?家庭の風景。老人に抱かれることでも、子供は子供の役割を果たしている。
パリジェンヌ。すっきりと粋な少女は、アンカーの娘。一家は、毎年、秋から春を、パリ暮しに充てていたそうだ。


スープを飲む少女


お茶の時間。
静物画も素晴らしかった。素朴で清潔なテーブルセッティング。彼らの勤勉をも見る。

そのほか、鉛筆で描かれた女性像の、衣服の表現に、息をのむほど素晴らしいものがあった。スイスリネンの柔らかさ、柄の繊細さが見事だった。

Albert Anker(1831-1910)スイス中央部インス村の画家。

心地よい展覧会だった。古き良き山村の生活をうかがう。
日本の明治時代である。
緊張感あるゆえの心の安らぎ。周りの人々を大切に気遣うからこそ、命が守られ、育まれる。