8.11.2008

本当の二十一世紀に会えるのはいつ?/フェレシ テナジミ

フェレシテ ナジミさんは、以前も、出場しておられたんですね、
4年前の発表を見つけました:

皆さん、今まで、他の皆が楽しんでいる時、ふっと悲しみに包まれたことがありますか。
実は皆が楽しんでいる花火の夜に私はなきました。花火の爆発の音が聞こえてきた時、知らず知らずのうちに涙がほおを流れてしまいました。私は子供の頃に、よく聞こえていた音を思い出してしまったのです。その頃、爆発の音が聞こえてくると必ずなにかが無くなっていました。そういえば友だちと自分の名前を刻んだ机もその音が聞こえ時、なくなってしまいました。先生が見ていないうちに自分の名前を机の上に刻むことも、他のいたずらのように楽しかったですが、机が無くなった時、つまり学校が爆撃された日、その楽しさも、なくなってしまいました。
「どうして?」と父にたずねたら、「戦争だからだ」と言われました。「戦争!?」まだ子供だった私は、戦争の意味が分かりませんでしたが、「きっと嫌で怖い物なんだろう!」と思いました。
子供の頃、怖い事があると、私はいつも父の腕の中に逃げ込んでいました。そんな時、私を抱きしめてくれた父の笑顔は素敵で穏やかでした。それで安心することが出来ました。初めて爆発の音が聞こえたときも、怖くて父の腕の中に逃げ込みました。でも父の顔を見たら、今度はいつもと違って目が涙でうるんでいました。
世界で、一番強いと思っていた父の涙なんてこの時まで見たことがありませんでした。
毎日の怖い爆発の音、なくなってしまった学校、自分の子さえ守ってあげられないという父の辛さ、心配と不安に悩まされてしまった母の顔、私にとっての戦争。忘れようにも一生、忘れられないことだと思います。
人を悲しませ、かけがえのないものをうばう戦争をいったい何のためにするのか。人間だからもっと優しくいたわり合うことが出来ないのかと成長して大人になった私は、いつも心を悩まされました。
火星まで行けるほどの知識をもっている二十一世紀の人間は、石器時代の人間のようになんでも戦争で解決しようとしています。私は、もう二十一世紀ですから、人間はもっと大人になってもいいころだと思います。そうしたら
本当の二十一世紀に会えることができると思います。では、どうすれば平和に解決出来るのでしょうか。

実は、日本に来たばかりの私の心の中にも小さな戦争がおきてしまいました。
日本に来てから、ずっと私は、イラン人である自分を周囲の人に受け入れてもらえないと感じていました。例えば、電車の中で、こんなことがありました。「ハロー」と若い日本人の女性に話しかけられました。「どこの国の人ですか。」と英語で聞かれ、「イラン人です。」と答えたら「あぁ、そう!」とサーッと行ってしまいました。あの日、本当に悲しかったです。「イラン人じゃ、ダメなのかな!」と思うようになりました。でも私はイラン人である自分を変えたくありませんでした。だから自分を守ろう、と周りの人の考え方を変えようと必死で頑張りました。そうして自分の中におきていた戦争にずっと苦しんでいました。
いつの間にか、その戦争も終わりましたけど、今考えてみたら、なんだか分かるような気がします。その戦争がおきてしまった理由が何かと。違う私を望んでいた日本人、違う考え方を望んでいた私こそがその戦争の理由だったと思います。
そしてやっと、出会うことが出来ました。日本に来て、初めての友達と。彼女は私をそのままで受け入れてくれました。自分を変えなくてもいいんだと、ようやく安心することが出来た私は、その時まで口にもしなかった日本食を食べることにしました。「食べてみなければ、分からない!」と思い、何よりも臭いと思っていたナットウまで食べてみました。食べ続けたら、そのうち美味しくなってきました。なれない食べ物になれたら、なじめない考え方も理解できるようになりました。そうして心が穏やかになりました。やはり理解し合えば、戦争のない世界が作れるのだと分かりました。そして、私は決心しました。違う世界をもっている人間だから、逃げないで、話し合うことを。話し合えば、きっと目の前に新しい世界が広がると思います。見えるようになった世界を戦争せずに、受け入れるのは二十一世紀の大人だと思います。私は、そうして、本当の二十一世紀を迎えたいと思っています。
そして戦争のない、本当の二十一世紀を一つの贈り物として、自分の子供にプレゼントしたいと思います。皆さんも一緒にいかがでしょうか。一人一人が自分と違った物をそのまま、受け入れることが出来た時、本当の二十一世紀に会えるはずです。

8.06.2008

外国人による日本語弁論大会

大会は、6月14日(土曜)、川越市で開催され、今年で49回目だという。
日曜日(8/3)の夜遅く、テレビで放映されていたのを、静かに見ることが出来た。
暢気に、目の前だけ見て?暮しているところに、『喝』を入れられるような、しかし、節度と思いやりのある言葉が選ばれて、聴く人の心にスッと届くような、大変優れたスピーチだった。
そのなかから、幾つかを、紹介:

あなたは「大変」ですか/フェレシテ ナジミ

Ms. Freshteh NAJMI (イラン・大東文化大学・大学院生)
私が来日して七年になります。この七年間、私は多くの人と話をし、様々な日本語を耳にしてきましたが、その中でもよく耳にした言葉があります。それは、「大変」という言葉です。この言葉を口癖のように使う人もいるほど「大変」という言葉は日本人の間で非常によく使われています。この言葉の意味を現代国語辞典で引いてみると、「大変苦労する様子」とありました。
日本は平和な国です。他の国同様に日本の憲法にもある程度の弱点はあるものの、国民を大切にする法律が多々定められています。人権は尊重され、努力さえすれば普通の暮らしができるほどの収入が得られます。日本では、民族や宗派の争いもなければ、戦争も起きません。失業率も少なく、飢え死にしてしまう人等は皆無と言ってもいいでしょう。いくら貧しい生活を送ったとしても子供は義務教育を受けられます。だからこそこんなにも恵まれた国の人々が「大変」という言葉を使いたがる理由が私にはどうしても分かりません。
私の生まれ育った国イランでは、様々な問題を抱えています。他国からの攻撃を受ける危機や、経済制裁等によりイランの国民は非常に厳しい状況で生活をしています。イランイラク戦争が長引いてしまったせいで、イランの人口の70%が25 歳以下の若者です。経験豊富で知恵や技術のある中高年の人達が少ないのです。これが経済や技術の発展を遅らせる原因とも言われています。また、イランでは働かなければ生活できない子供も少なくありません。このような子供は学校で過ごすべき時間を労働に費やしています。しかし彼らに話しを聞くと、皆素敵な笑顔で将来の夢を語ってくれます。なぜでしょう、決して「大変」という言葉を口にしないのです。イラン人というのは特にスーパーマンなわけではありませんが、「大変」という言葉を使う習慣はないのです。
私は留学のため20 歳の時に来日しました。学費を払いながら自活し、勉強することは簡単なことではありませんでした。学費のため節約するしかありませんでした。食事に使えるお金は限られていて、断食する日もあれば、一日を100 円だけで過ごす日もありました。100 円で買えたのはモヤシを三袋です。朝、昼、晩、一袋ずつです。しかし、モヤシ一袋では満腹になりません。お腹が空いていれば人間は寝付けないのだと私はその時初めて分かったのです。それでも私は「大変」とは思えませんでした。なぜなら私には勉強したいという強い意志と、達成したいゴールがあったからです。ゴールに辿り着くことを楽しみにし、自分で道を選択したなら、「大変」とは言えないのです。
残念ながら日本では、「大変」という言葉が日常で使われるだけではありません。日本の社会は時に「大変」という言葉を強制的に人々に言わせようとします。私は昨年奨学金に応募し、試験を受けました。試験は自分の国の紹介がテーマの小論文と面接でした。私は小論文を書く試験には合格することができました。私はよく日本の高校などを訪ね、私の生まれ育った国を紹介しているので難しいことではありませんでした。しかし面接では落ちてしまいました。私が一言も「大変」という言葉を使わなかったからだと思います。
私は奨学金というのは寄付金とは違い、社会が必要とする学問の研究を手助けするためにあるものだと思っています。そうであれば、面接で重要となるのは私の研究方針であり、社会においての私の研究の重要性や必要性だと考えていました。しかし、面接で私が受けた質問は研究とは無関係な質問ばかりで、お涙ちょうだいというような雰囲気のものでした。
母語で話せる友人も家族もいない留学生というのは言うまでもなく、精神的にまた、環境の面でも問題を沢山抱えているのです。それをわざわざ言わせる必要等ないと思います。奨学金というのは、沢山の問題を抱えながらも社会での活躍や学問に励んでいる学生を支援するためでなければ無意味だと思います。私の友人も奨学金に応募したそうです。「面接官の悲観的な質問を受けたので、面接では自分の貧しさをいかに上手く表現するかで奨学金が決まる気がした」と彼女は言っていました。私は、自身で考える力、何事にもチャレンジする精神と自分の意見を恐がらずに言う勇気があります。これらはお金と換えることの出来ない私の宝物なのです。そう、私は決して貧しい人間ではありません。例え求められたとしても私は「大変」という言葉を使うことはできません。「大変」というのは夢を持てない時なのです。夢を持った人間には「大変」という言葉は相応しくありません。皆さん、夢があれば「大変」は楽しめるものなのです。夢を持った人間がたくさんいる社会ほど幸せな社会はありません。皆さん、どうぞ夢を持ってください。「大変」という言葉ではなく、「楽しみ」という言葉を使って、自分の選んだ道を歩んでください。
御清聴ありがとうございました。

おいしさの秘密/ダシドルジムンフジャルガル

Ms. Munkhjargal DASHDORJ (モンゴル・アルバイト・食品販売員)
「おいし~い!」。日本のテレビを見ていると、この言葉をしょっちゅう耳にします。
私が日本に来て気づいたモンゴルとの違いの一つは、日本では、食べものについてのテレビ番組が、とても多いということでした。毎日、朝から夜中まで、あちこちのチャンネルで、いろいろな食べものを紹介しています。高級レストランのぜいたくな料理、日本のある土地の名物料理、まだあまり知られていないめずらしい食材を使った食べ物、健康によい食品、家庭での料理の作り方など、食べものについていろいろな情報を伝えてくれます。テレビの中の芸能人は、目の前に置いてある食べ物を一口食べた瞬間笑顔に変わって、幸せそうにこう言います。「おいし~い!」。テレビを見ている人たちも、それを見てうれしい気持ちになるんでしょうね。日本人はおいしいものを食べるのが大好きです。日本人のみなさんはきっと、食いしん坊なんでしょう?
食べる人が一所懸命ですから、作る人たちも同じように一所懸命です。味についていろいろ研究して、細かい技術を使って、おいしいものを作り出します。私たちモンゴル人は乳製品をよく食べます。ずっと昔から、ヨーグルト、チーズ、バター、お酒だって家畜のミルクから作ってきました。私は日本に来てからももちろん日本の乳製品を買って食べています。日本人が乳製品をよく食べるようになったのはそんなに昔のことではないと聞きました。でも今、日本の乳製品はとってもおいしいです。またある留学生は日本に来て、ペットボトルのお茶を飲んで「おいしいね」とすごく感動してましたよ。日本人のまじめで熱心な性格が、そうやってたくさんのおいしい食べものを作り出しているんでしょう。それに、日本の自然、特に、豊かな水がおいしいお米や野菜を育てているんだと私は思います。
また、忘れないでください。日本は外国からも、おいしいものをたくさん輸入している
んです。それはもちろんおいしいに決まっています。
以上、私は日本の食べもののおいしさの秘密を考えました。でも私の話はここで終わりではありません。もう少し続けて話したいと思います。
私は大食いという食べ方も日本のテレビで初めて知りました。おいしそうな、ぜいたくな食べものを大きな口を開けて、次々と食べていきます。食べものをできるだけたくさん食べる競争なんて、私は自分の目で見るまで考えたこともありませんでした。日本人は、世界のおいしいものを自由に手に入れることができるようになりましたから、次はそれを、たくさん、ほかの人よりもたくさん食べないと満足できないのでしょうか。
また、ゲームで負けた人に、青汁やすっぱい果物をむりやり飲ませて、その苦しそうな様子を見て、みんなで笑っている番組も見たことがあります。食べたくない人になんでむりやり食べさせる必要があるのでしょうか。
それから私は次のような話も聞きました。ある外国人が日本人に自分の国のチョコレートをおみやげにあげたそうです。もらった日本人はそれをちょっと食べて、まずいと思ったんですね、そのまま捨ててしまいました。そして、あれはまずいチョコだったなぁと人に言ったそうです。その外国人はあとで偶然それを知って、ショックを受けていました。
そのチョコは日本のものと比べたら技術はよくなかったかもしれません。でもプレゼントする人の心がこもったチョコだったんです。食べものにはこういう「おいしさ」もあるんじゃないですか?
今、日本にはおいしいものがたくさんあって、お金さえ出せば、いつでもそういうものを食べられます。食いしんぼうのみなさんは、お腹をすかせるひまもないでしょう。でも、いつもいつもおいしいものばかり食べ続けていたら、本当のおいしさも、食べものの大切さも、分からなくなってしまうかもしれません。それに、本当においしい食べものというのは技術だけでは作れないものだと思います。私は日本に来て、テレビを見ながらそんなことを考えました。ですから私は、今日、みなさんにそれを伝えたかったんです。
実は、私も食いしんぼうなんですよ。それで私も、できるだけたくさん、この日本語を使っていきたいです。「いただきま~す・・・・・・おいし~い!」。
ご清聴ありがとうございました。

若者・馬鹿者・よそ者/サミーラ グナワラデナ

Mr. Sameera GUNAWARDENA (スリランカ・海士町観光協会・研修生)
私は今、日本の観光協会で働いています。
お客さんに民宿を案内するとき、「お客様、携帯の繋がる民宿と、繋がらない民宿、どちらにいたしましょうか?」と聞きます。私が働いている所には、携帯が繋がらない民宿もあります。携帯が繋がらない民宿で、日常から離れてゆっくりしたいお客さんもいらっしゃいます。
すっごい離島にあるんです。
その離島は、「海士」と言います。「海」に武士の「士」と書いて「海士」と読みます。
島根県にあります。島根県は、「日本人がどこにあるか分らない県№1」の県で、山陰にあります。その島根県の日本海沖、60 キロくらいのところに隠岐諸島があり、その中に海士町はあります。後鳥羽上皇が島流しされた場所です。
6 年前に留学生として来日した私は、大学卒業後、東京で会社員をしていたある日、「面白い島があるよ」と聞いて、初めて海士に遊びに行きました。その時の私は、東京の会社で、仕事の面白さを実感できずに、「仕事なんてこんなもんさっ!」とくさっていました。
そんな私は、海士で、役場の研修生募集に会いました。「この島で宝探しをしてみませんか」
私はそれにすぐにひっかかって、海士で仕事をすることにしちゃいました。
私は、「若者」「馬鹿者」「よそ者」だったんです。
実は、この言葉は海士の町長さんの書いた本の中にある言葉です。
海士町では、「『若者』『馬鹿者』『よそ者』がいれば町が動く」と考えて、町おこしをしていたところでした。分別のある大人ではなく、まさに、私みたいな、エネルギーだけ持て余して、向こう見ずに調子に乗って飛び込む、「よそ者」の視点を持った人を求めていたのです。
海士の職場に行ってみたら、机の上にパソコンが一台あるだけでした。職場の窓から海と山が見えました。海は静かで、「鏡のようだ」と小泉八雲が表現した入り江が、青い空を映していました。
「自由にやってくれ」とだけ言われた私は、全く仕事の指示がなく本当に苦しかったです。
原付でふらっと出掛けて、「この島ってどこに人がいるんかなぁ」と思って走りました。
何をしていいのか分らず、とりあえずは、ただただ島をグルグル回って過ごしました。そのとき見たのは、毎日毎日、漁に出かける船、畑でがんばっているじっちゃん、ばっちゃんでした。
役場の先輩とイモ掘りの手伝いに行ったとき、初めて「じげもん」で作った「爆弾おにぎり」を食べました。「じげもん」というのは、「地元の物」で、「爆弾おにぎり」は、外の仕事の時食べるでっかいおにぎりのことです。「こんなに美味しいもの毎日食ってんの?ぜいたくだなぁ~!」と、うまいものを食っていなかった「よそ者」「若者」の私は思いました。
島の人が当たり前のように飲み食いしている「うまい宝」はまだまだありました。魚のアラの煮付け、山菜の天婦羅、なまこの酢の物、肉の代わりにサザエを入れたカレーライス・・・。それに、船の上で食べるイカ刺しは最高です。祭りの後の打ち上げで、漁師のたくましいじっちゃんたちから「飲め飲め」と酒を勧められて、酔いつぶれて、気がついたら朝だったこともあります。
離島の暮しは厳しくて、時化の時、海士は、完全に孤立してしまいます。でも、島の人たちは、持っているものを融通しあって、おかげさま、お互いさまの精神で生きています。季節ごとにやるべきことが分っていて自然と共に生きています。「山が荒れると海も荒れるから」と言って、漁師さんが山に木を植えています。風土がこの人々を創り上げたのでしょう。この人々の知恵こそが、本当の宝なのです。
私は、島の子供たちと英語キャンプをしたり、「国際化」についてのエッセイコンテストを企画したり、スリランカ行事体験ツアーを企画したり、何でもかんでも挑戦しています。失敗することもしょっちゅうです。
ある日、私は島で新しい宝を発見したんです。
スリランカでは「ゴトゥコラ」と言う有名な若返りのハーブが、島に生えていたんです。
島の人は、ただの草と思って誰も食べていませんでした。今、このハーブで商品開発をすることが私の夢です。
「よそ者」だった私は、よそ者の視点・発想を持ち続けたまま、もう今は「よそ者」ではなく、海士は私の居場所になりました。
人は、縁あって住むことになった場所で、一所懸命に生活することで居心地のいい場所を作ることができるのだと知りました。
最近では、スリランカの親戚の名前や顔も忘れてしまいました。「あのばあちゃん、亡くなったよ。あなた子供のころよく可愛がってもらっていたじゃないの」と言われても思い出せなくて、スリランカの母に怒られることもあります。でも「スリランカは自分の国だ」という気持ちは、ずっと心の根っこに持っています。
私は今、スリランカにとって、いい意味での「よそ者」になりました。
海士での宝探しの仕事を通じて、「よそ者」の視点や発想があれば、20 年にも渡る内戦で荒んだスリランカでも、新しい宝を発見できるのではないか、と考えるようになりました。
海士のおかげで、スリランカに恩返しできる方法を知りました。
私は、いつまでも、年をとっても「若者」で、フレッシュな発想が出来る「よそ者」で、お調子者の「馬鹿者」として挑戦して行きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

忘れていませんか「思いやりの心」を/ホックエムディモビヌル

Mr. MD.Mubinul HOQUE (バングラデシュ・四日市大学・大学生)
みなさん、私の祖国のバングラデシュを始めとする南アジア諸国の人々が、日本についてどのようなイメージを抱いているかご存じでしょうか。南アジアの多くの人々は、世界有数の経済大国として驚異的な発展を遂げ躍進する日本を、現存するユートピアとしてイメージしています。そして、日本に暮す人々は、経済的な繁栄をバックに、優雅な生活を謳歌する「幸福な人々」だと考えています。これは、日本の経済力や技術水準の高さに加え、勤勉で礼節を重んじ平和を尊ぶ日本人を好意的に報道する南アジア諸国の様々なメディアにより、長年にわたり築き上げられた日本および日本人に対するイメージなのです。
わたしの祖国バングラデシュは、1971 年にパキスタンから独立し、すでに37 年経ちましたが、経済状況は低迷を続け国民の暮しは一向に改善されず、今だに貧困から抜け出すことができません。バングラデシュの国民にとって「幸せ」とは、今だに手に入れることのできない絵に描いた餅なのです。そのバングラデシュに、日本政府は長年にわたり資金や技術協力を続け、国家建設に大きな貢献を果してきました。わたしたちバングラデシュ人は、日本に対し感謝の気持ちを忘れたことはありません。
3 年前、わたしは、その憧れの日本へ幸運にも留学することができました。近代的な都市に住み、豊かな物質文明を贅沢なまでに享受しながら幸せそうに暮す人々の姿と祖国のバングラデシュとのあまりの格差に、わたしはこれまでに経験したことのない大きなカルチャーショックを受けました。
全国至る所に設置された自販機では常時温かいコーヒーが売られ、24 時間営業のコンビニではお弁当やおにぎりまで売られている。鉄道や高速道路は目的地への短時間の移動を可能にし、電話一本でタクシー、救急車、そしてピザの配達まで自宅に出向いてくれる。家庭には、様々な家電製品が溢れかえる。日本は正に現存するユートピアでした。わたしは日本に来て初めて豊かさに囲まれた「幸せ」を実感しました。
テレビでは、全世界が最も関心を寄せる地球の温暖化や環境問題に、京都議定書の発効を機に積極的に取組む日本の頼もしい姿が映し出され、わたしの日本贔屓はますます強まるばかりでした。
しかし、その思いは残念ながら徐々に薄らいでいきました。それは、年間3 万人を超える膨大な自殺者数、毎日のように発生する親族間での殺傷事件や強盗・窃盗事件など、暗いニュースを見聞きする回数が増えていったからです。わたしは日本のこの現実に大きな衝撃を受けました。
わたしは、日本の友人や知人に「幸せですか」と尋ねてみました。答えの大半は「いいえ」でした。豊かな日本でなぜ人々は「幸せ」を感じられないのか。わたしは理解に苦しみました。
日本は戦後、短期間で高度経済成長を実現させ経済復興を成し遂げ、その間国民は生活の便利さと豊かさを手に入れるために懸命に働き、やっとの思いで「幸せ」を手にしました。その「幸せ」な日本がなぜ。
わたしは考えました。経済の繁栄を基に「物質的な豊かさ」を手にした日本社会は、人と人が互いを気遣う「思いやり」を必要としない殺伐とした物質主義社会に変ってしまったのではないか。機械化された生活の中で、人々は「心」や「命」を大切にすることを忘れてしまったのではないか。
バングラデシュには自販機もコンビニもありません。家には電化製品は数えるほどしかありません。しかし、それでも何も困ることはありません。洗濯は手でします。掃除は箒で掃きます。買物は歩いて行きます。多少の時間と労力は必要ですが、人の手足でみんなしっかりと生きています。
驚かれるかもしれませんが、わたしの実家では家の玄関に鍵をかける習慣はありません。近所の人は調味料がなくなれば自由に私の家に入って借りていきます。お互いを信頼し助け合いながら生きています。貧しくても人の家の物を盗んだり、人を傷つけたり、一人で悩むことなどほとんどありません。何か問題が起これば近所の人たちが自分のことのように心配し相談に乗ってくれます。助けてもくれます。人間同士の「心」の繋がりがあります。他人を気遣う「思いやりの心」があります。
わたしは、今、コンビニでアルバイトをしています。そのコンビニでは毎日3 回、賞味期限切れの食品を大量に廃棄処分しています。「もったいない」。廃棄処分する度に、わたしは心がとても痛みます。処分されるお弁当の裏側には材料の輸入国が記載してあります。ほとんどが食糧事情に苦しむ発展途上国です。先進国の国名はほとんど見かけません。貧しい国々から輸入された貴い食糧が、毎日、いとも簡単に捨てられています。わたしは日本の豊かさが、かつての日本には生きていた「思いやりの心」を失わせてしまったような気がしてなりません。
日本がいつまでもわたしの敬愛する国であってほしい。かつてのように「人の心」と「思いやり」を大切にする日本社会にもう一度立ち戻ってほしい。日本が名実ともに南アジア諸国のイメージする真のユートピアになる。その日の到来を、わたしは心から待ち望んでいます。
日本のみなさん、忘れていませんか。今一度、思い出してください「思いやりの心」を。